『ユング心理学研究』第4巻原稿「ジェームス・ヒルマン博士の最後の日々を共にして」
わが恩師であり、約半世紀にも及ぶ私の分析家であったヒルマン博士とボストン郊外のコネチカット州、トンプソンに最後のお別れをしてきた。その渡米の決心したのは中国滞在中の今年の9月18日のことであった。これは、丁度国際ユング心理学会(IAAP)から中国ユング心理学会への援助のために派遣されたポール・クグラー博士とご一緒に講演をしていた上海のホテルでのことである。この旅行は上海を始めとする3都市で、4つの大学を訪問してそれぞれが講義をし、スーパーヴィジョンを行なう目的での滞在であった。(注1)すでに、これまで病状についてはマーゴット夫人から発病以来逐一知らされていた。
じつは、今年(2011年)夏にかつて河合隼雄先生と共にユング心理学海外研修旅行と称してしばしばヒルマン先生の講演をスイスでうかがった仲間と一緒に、日本人の人々をこのヒルマン邸に訪れる予定を立てていた。これは先生の意向でもあり、元気になったので久しぶりに懐かしい日本の人々を招いて、先生を中心に想い出を語り、またアットホームのミニ・シンポジュームやお庭で遊び、交流をしたいという博士の強い願いであった。そして2010年の冬になり、我々もその準備にそろそろ取りかかろうといていた矢先、先生がニューヨークで入院し、手術を受けられという知らせを受けた。これは、先生は股関節の手術で体に埋め込まれていたものを取り出すもので全快の予定であった。その結果が癌の発見で、さぞや先生も落胆されたことであろう。したがって、この計画は残念ながら中止ということになった。
ここに至る迄には伏線があった。昨年(2010年)夏京都文教大の名取琢自さんと私がたまたま前年ヒルマン先生の全快祝いでを兼ねてのパーテーに招待されて前後夏の3週間あまり滞在した。(注2)その時の写真(写真1)にもあるように先生は上機嫌で、邸内のお庭で宴が開かれ、彼を旧知の友人たちが世界各地から集まって回復を盛大にお祝いした。

写真1。2010年夏 トンプソンの自宅の庭で乾杯をしている元気な博士。
また、そこからモントリオールで開かれた国際心理学会に夫人の運転する車で参加し、また途中美しいニーイングランドの景色を楽しみつつ帰った。その時は会議でも杖はついていられたが、全く元気で学会では旧知の学者方とも旧交を温めておられた。(写真2)その健康を裏づけるように、まもなくロスアンジェルスのパシフィカ大学院やチューリッヒ・ユング心理学研究所での講演予定など、博士が再び復活して講演されるという発表を頂いた。

写真2。モントリオール学会での先生と。
その時私もいよいよまた新しいヒルマン元型心理学の復活の活動が始まるのかと、期待に胸を弾ませていたのであった。
追いかける様に、マッゴト夫人からヒルマン先生の病状が憂慮すべき状態にあること、先生が会いたがっているので是非ともというメールが私の元にきた。最早事態はいよいよ切迫していると直感し、私としてもさてどうしたものか、自分の84才という歳を考え、では身辺の雑事をどう整理して行くか、とりあえずこの中国訪問が済んでから考えよう、など心を決めかねていた。帰国して、直ちに約束していた京都文教大でのシンポジュームなど、済ませていたところに新しい知らせがきた。丁度その頃折よく来日されたユングの『赤の書』の翻訳で名高いソヌ・シャマダサニ博士(注3)が京都での講演の帰路、ヒルマン邸に帰路立寄り直接病床を訪れていたのである。二人は昔から互いに親しいなかで、トンプソンでの先生と共に病床でお酒を飲んでいる写真を数枚私に送ってくれた。ソヌさんとは私も昔からの既知の仲で、同氏とは今回も日本料理屋で二晩も痛飲した仲であり、彼は私にそっと「出来るだけ早く訪問した方がいいよ」、と助言してくれた。そのメールで「トンプソンの庭の老木を歌った英語の君の詩が彼の病室の壁に掲げてあったのを見たよ」という言葉が添えられていた。
それで急遽、何をおいても単身飛行機を探して行くことにした。成田からダラス・テキサスへと、乗り継いでボストンに空港に降りたったのは9月13日の夜遅くだった。迎えの人のトラブルもあって、その方の車でトンプソンのお宅についたのはもう既に真夜中だった。先生はそれでもベットから起き上らんばかりにして笑顔で迎え歓迎してくれた。もう本人とはコミュニケション不能の状態かもしれぬ、という私の危惧に拘らず、予期したより先生ははっきり目覚めていて元気な声で語りかけてくれた。そこにはいつも慣れ親しんだ好奇心に目を輝かしている少年のようないつもの先生がいた。(写真3)早速、矢継ぎ早に「それで、これから中国はどうなるのかな?」とか、「日本の皆はどうしているか?」など立て続けの質問と議論に花が咲いた。それから私の滞在は21日までの8日間に及んだが、以下その先生の人生の最後の日々を気遣う日本の方々にその詳細を記してみたい。

写真3。先生が作らせた自分のお棺。
一言でいうと、先生には今日でいう我々に考えられる末期がん患者に対する医療はこうあるべきだ、という見本のような最善のケアがなされていた。すでに、ニューヨークの病院ではこれ以上の延命治療は必要なく、本人もそれを拒否し、むしろこれからは緩和的医療(注4)に切り替え、最後の日々を、自宅をホスピスにして奥様の看護を中心に全てが組まれていた様子であった。先生には薬物の効果で痛みはほとんどなく、癌の痛みは完全にコントロールされている様にみえた。ただ、モルヒネを中心とする薬の効果でうつらうつらして寝ている状態も多かったが、醒めるとそこにはいつものヒルマン先生がいた。長い療養のせいで、自分では自由に体を動かせず、周囲の人々の手を必要としていた。そのための苦痛には遠慮なく声を挙げていた。そして、次の日真っ先に「樋口、俺はこれから死ぬよ!」といって私の顔を見詰めるのである。これには私もいさかかド肝を抜かれしばし言葉を失ったが、それは「誰でも人間はいつか死ぬ」ともこれはとれるし、「もう直ぐ死ぬ」とも意味がとれる。例によってそこに先生独特の鋭い言葉の意味を私は感じとった。つねづね彼は言葉の直解法(literalism)を嫌って、豊かな意味をもつイメージのふくよかさをつねづね愛していた。とっさに、私もそれに真正面から答えず、「いや、先生のお棺は隣のお部屋にあって、もう見せてもらいましたよ。」というと、ニャッと笑って私の顔を見た。それは、夫人の友人の大工さんが精魂込めて作ったもので既に出来上がっていてドアを隔てた次の間に置かれていた。神道の棺のような白木で作られたもので、正面に彼の名前がそこには刻まれていた。出来上がった時、それを見て彼は喜んで、彼の棺に接吻したそうである。

病床の先生
毎日彼の下には緩和的療法の医師、看護士、その他マッサージの専門家など随時必要に応じて訪問して彼の看護にあったっていた。彼は駆けつけた人々とは気さくに話をし、我々も時に夫人では重すぎる彼の体をベットからベットへとの移動などを手伝った。人間ヒルマン全体の姿を周囲の人に預けて、心からケアを喜んでくれているようだった。では、こんなこと自分にには果たして出来るかと考えると私には難しいように思う。もともと彼の家は日本家屋に比べて大きく、普段から様々な人々がこの家に滞在出来る様にしてあった。このヒルマン邸には普段からいろいろ国からの客人が泊り、邸内のどの部分にもそれぞれ寝室とシャワーが独立して付いていて、執筆など仕事ができる様になっている。そして泊まっている人は朝起きて腹が空くと、皆自然に台所に集まってきて、冷蔵庫を開け、それぞれ勝手に料理を作って、お茶を飲み、楽しい話題の議論に花を咲かせながら共に食事をする。彼が元気であった時はむろん彼を中心に学問談義に花が咲いたものである。その壁には日本訪問の途時に手に入れた、錬金術に因んだ備長炭が飾られて、客人の興味を引いていた。私の滞在時にはパリから彼の永年の親友である劇作家・演出家のエンリケ・パルドーさん(注5)が滞在していた。数日して息子さんの元型心理学占星術師ローレンス・ヒルマンさん(注6)や美術館運営の専門家とお見受けしたキャシー・マクレーン、夫人のお姉さんも滞在していた。また、前々から資料収集にあたっている伝記作家のデックがインターヴューに来ていた。また驚いたのは、すでに予定されていたようにニューヨークから映像作家のバレリー・レイマンさん(注7)が日常の日々の彼や、その発言を録音し逐一映像に収めていた。このように何の変哲もないこの最後の日々は一部始終が記録されていたのであった。これらの記録はやがてそれらが何時か我々の目に触れるであるであろう。
その最後の日々は、何気ない日常の中に彼の思想のすべてを語りかけているようにも見えた。わが国でも彼の著作は様々な人によって訳され、また直接数多くの訪日と途時直接講演などで彼の心理学には触れている。幾ら難解であっても、人々の多くにヒルマン先生といって親しまれてきた。どちらかというと、ユング派の学者でありながら、またその中枢に絶えずありながら、ただのユング派学者ではなかった。彼はどこまでも自分の唱えた元型心理学者であり、いかなる派閥も嫌っていわゆる弟子を作らなかった。その著作は現在纏められて、出版されているところである。やがて、彼の考えていた全貌がやがて理解されることになるであろう。その著作はただの心理学の領域を離れて、美学、哲学、心理学、都市計画、経済学、神話学、民俗学など人間学全般に及んでいる。没後直ぐにニューヨクタイムス誌がその多岐にわたって現代アメリカ社会に最も影響を与えた著作家として死の翌日(10月27日付け)に次のような記事を掲載している。それによると、「カリスマ的心理療法家であると共に、カール・ユングの思想を1990年代に起きた所謂人間の運動に活力を与え、ポップカルチャーの空気を生き生きと伝えたベストセラー作家でもあった」と伝えている。
私は思う、私は彼の心は「ルネッサンス的な全人」を目指していたのではないか。ユング派であり、ユング心理学研究所では19060年代の勃興期の研究・教育の中心人物としてチューリッヒ研究所で活躍した。しかし、後に突然辞して、アメリカに渡って、テキサツ州ダラスを拠点としてわが国にも馴染みのあったスプリン社の書籍を多く出版し、そこから若い人々に思想的刺激を与え続けてきた。 そのヒルマン先生が、人間の最後を我々に自らを提供し、「人の死」についていつも真剣に問いかけているようであった。通常、私はここでみだりに人に自分の夢を話してはならないと言い、彼からもそう教わっていたが、いまその許し乞うべき人はいないし、きっとここでは彼が許してくれるだろうと思って、思い切って彼の語る夢を話すことにした。ある朝かれが起きると、居合わせた者に話りはじめたのである。それは「長いギザギザした道であった。左によると道から落ちそうになるし、右に寄るとまた落ちそうになり、果てしなく歩いていく。道は長く、長く続きそこを歩いていた。」というものであった。そこで私が「どうしたら、落ちないでいけるでしょうか?」と尋ねると、「それは道自身が言ってくれるよ!」と答えて笑っておられた。また、我々は人間の死や死後の世界について随分と時間をさいて話した。お互いに超高齢になると考える課題である。彼はいろいろと自分の体験を話してくれたが、その中で印象的であったのが、「樋口さん、そう思わないか?私たちは死後の世界をもう既に体験している。それは今迄とは違った世界に棲んでいる感じでそれはじつに豊富な体験だね。」そう言ってまたしても、私に顔を大きな青い瞳で覗き込む様に見詰める。私も、思わず「そうですね、確かに今迄見えなかった物が見えるし、世にいう「死んだ死」でなく、「生きている死」を体験していますね」というと、頷いてくれた。かねて、私が弓道で射る「残身」といって弓を射った後にのこる姿勢の美しさは、ただ的を当てることが全てではなく、その終わった後の余韻が美しいといったことを思い出した。一体その人間の身体の亡くなったあと、どれほど長くその余韻が留まるであろうか、肉体は朽ちてもイメージこそ鮮やかに生きているのだ、ということを思い出していた。
ヒルマンさんはもう数えることが出来ないほどの回数で来日された。それほど日本に愛着があったし、また日本文化を愛していた。しかし、自分が日本文化を知っているなど決してひけらかさず、その数多くの著書の中でも、控えめであった。しかし、その造詣は尋常ではなかった。それは、自分はあくまでも西洋という思想の流れの中で西欧の現代的な課題を論じているので、東洋に言及するのには全く門外漢で同一の線上では論じられないという立場にたっていた。そのくせ、日本人以上に日本についての造詣は尋常ではなかった。彼の書斎には六双の動物を描いた徳川をくだらない時代の日本画がいつも掲げられていた。それらすべてを今語ることはできないが、ただ一つ私の心に残ることがある。それらを今語ることはできないが、ただ一つ私の心に残ることがある。それは、彼の目を通すと全てが違った意味をもって活き活きとして見えることである。だから、いつも私は彼が目を注いだものを注目してみることしていた。ある時修学院の近くの曼殊院のお寺の庭を案内したことがある。その日本庭園は素晴らしく日本の自然がそこにあると、私が解説すると、いやそれは自然ではなく、すべての木は刈り込まれて、死がどこにも厳しく充満して自然なんて言うのは誤解だよ、と指摘された。下鴨神社の枯れた一本の老木に目をやり、その注連縄をみて、日本では枯れ木をなぜ珍重して保存しているのか、その木の神聖性にたいする尊敬が私には感じられると言ったりした。この種のエピソートの数はつきない。彼はわが国のユング心理学の発展にも多くの足跡を残した。
思い起こすと、最初の出会いは勿論私にとって1964年のスイス留学時の分析家の選択に始まる。その時、彼はチューリッヒユング心理学研究所の中心的存在で、デレクター・スタデーであった。私に分析家として彼を薦めてくれたのは、故河合隼雄先生である。自分は年寄りのマイヤー(注8)についているから、君は若手の彼がいいだろうといって推薦してくれた。以来半世紀の分析関係を継続したことになる。1965年には河合先生と組んで第一回のユング心理学海外研究ツアーが組まれ、チューリッヒでヒルマン先生やグーゲンビュール先生(注9)などを招いて毎年のようにスタデーセミナーを夏に開いていた。ギリシャ神話や錬金術などの名講義を聴いたものである。この一行の中には今日ユング心理学を背負っていられる先生がたも若き日にこの研究ツアーに参加されていたことを思い出している。
さて、ヒルマン邸の滞在だが、やがてその残された日々の時間も私には残りすくなくなっていった。10月13日に、21日の早朝迄、正味8日間を先生の自宅で送ったことになった。そして、いよいよ別れの朝が来た。早朝の4時半には出発しなければならないので、多分先生は寝ていられるだろうと思っていた。奥様も先生も起きていられ私の出立を待っていてくれた。前日は、遅く迄テレビを見たり、話したりいつもとかわりなく遅く迄話し合っていた。思えば、滞在中日本から持っていった能の『井筒』(注10)を一緒に見たし、ワールドシリースのセントルイスとの試合が始まると子どもの様に熱狂していた。私のために毎晩のようにぶどう酒で乾杯し、日本の想い出を語り、そして日本の酒を礼賛していた。私は、数多くの写真を自由にとらせて頂いたが、私が自分でとるので私と先生との一緒の写真がないことに最後になって気づいた。そして奥さんにお願いしてとって頂いたのが、ここに掲げたものである。(写真5)これが、先生との最後の別れとなり、そして、1週間もたたない2011年10月27日(日本時間26日)の早朝、先生は帰らぬ旅の人となった。(写真6)

写真5 最後の別れ

写真6 お庭の大木と主のいない椅子。
そして想った。誰が、その死の日々をこのように離れた国の弟子に一部始終を見せるか。もやがて弟子にやがてくる死の実相を教えるだろうか。そして、まことに人の魂はその個人が所有し、勝手にできるものではなく、それこそ大きな魂の中に、今は住まわせて頂いている事実を今さらのように実感している。(おわり)
(注)
1. 今回の中国訪問(Sep. 4 – 22, 2011)はDr. Paul Kugler, Honorary Secretary on Exceutive Committee of the IAAPと共に復旦大学、華東師範大学、華南師範大学、澳門大学でのユング心理学講演でDr. Heyong Shen 招待によるもの。
2.この訪問は2010年8月11日より9月3日に帰国したが、その間ヒルマン邸でのThe Old Timers Party from Zurich to Dallasが8月15日から17日まで開かれた。その後8月22日から27日までMontrealで開催された28th Congress of the International Association for Analytical Psychologyに参加、24日の午後に行なわれたヒルマン博士を中心に8名のBreak-Out Sessionでの舞台の姿が国際学会での最後となった。
3. Dr. Sonu Shamdasani ユングの「赤の書」の翻訳家。2011年6月4日京都で「ユングと近代の心理学」と題して学会の第2回学術大会で講演をされた。
4.緩和的療法(Palliative Care)WHOなどの提唱によるがんの痛みからの解放を主に、それ以外の諸症状のコントロール、心理的苦痛、社会的またスピリチュアルな課題にも対処する療法である。
5. Enrique Pardo 現在パリを中心にPantheatreを主宰し、演劇活動をするペルー生まれの劇作家であり、舞台監督である。ヒルマンの友人であり、彼の影響を深く受けている人。
6. Laurence Hillman, Dr. Hillmanの息子さんで元型心理学占星術の研究家である。
7. Valery Lyman, Boston とNewYorkを拠点にDocumentary Cinematographer のdirectorとして活躍中の人。
8.C.A. Meier 河合隼雄の分析家で、ユングと同世代のユング派分析家。
9. Addolf Guggenbuhl-Craig スイス時代からの友人でユング派の分析家。
10. 日本古典文学集 謡曲集 1 井筒 小学館 1997, p.286-297.