八木橋康広 先生より (永眠12年を覚えて)
2025年8月 八木橋康広 先生(現 中部学院大学短期大学部幼児教育学科 教授・宗教主事 博士(神学)・元 日本基督教団高梁教会主任牧師)が、樋口の永眠12周年を記念する追悼文を寄せてくださいました。ご了解いただきましたので、その貴重な原稿をここに掲載させていただきます。
ご多忙な中、心のこもったお言葉を紡いでくださいましたこと、心より感謝いたします。(遺族:古橋悦子より)
なお、高梁教会については、ここにも掲載しております。
「死と復活の姿にあやかる」 ローマの信徒への手紙6:3-5
2025年8月23日(土)
本日は、聖書の言葉を学び、2013年8月25日に天に召された故樋口和彦先生をしのぶものでありたい。
今日取り上げた箇所は、使徒パウロのローマの信徒への手紙の中の一部である。この書簡はパウロ晩年の手紙で、イエスの福音を約30年にわたって世界中に告げ知らせて来た使徒パウロの豊かな経験と深い思索に裏付けられた信仰が、円熟した思想によって表現されている。その中でもイエスの福音-すなわちキリスト教という宗教の核心的部分が簡潔に解き明かされているのがこの6章1節から14節の部分であると私は考える。今日の箇所は、さらにそれから要点を抜き出した。すなわち神の嫡子イエスは、人類の全ての罪(最初の人間アダムが犯して以来全ての子孫に例外なく刻印されている原罪)を自らの意志で代わりに引き受け、十字架にかけられ、苦しみ抜いて死んだ。こうしてイエスの肉体は罪と共に死んでしまった。しかしてその霊は肉体の死の深淵から蘇り、天に昇り、父なる神と一体となった。地上にあるイエスの弟子は、このイエスをおのが主、魂の救い主として仰ぐのである。それは、パウロがここで述べている通り、要するにおのれの人生において「キリストの死の姿にあやかることによって、その復活の姿にあやかる」ということである。以上は、キリスト教徒ならば知識としては誰もが知っている基本中の基本の教説だ。しかしこれについて具体的なイメージを持つためには、良き信仰の先達が身を持って示してくれたあり方、すなわち良きお手本が必要であろう。
私にとって晩年の樋口和彦先生とはそのような存在である。そこで以下では私が接し見聞きした樋口先生の地上での最後の日々の印象から「キリストの死と復活にあやかる」とは一体何を意味しているのかということを学んでゆきたい。
樋口先生は、昭和2年(1927)横浜市生まれで、昭和32年(1957)同志社大学神学研究科を修了後、米国に留学した。新島襄の学んだ神学校の後身のアンドーバー・ニュートン神学校で初めてユング派の心理学と臨床牧会訓練に出会って日本における最初の専門家となられた。
1960年(昭和35)に帰国し、直ちに同志社大学神学部の専属教員になられて、平成9年(1997)70歳での定年退職まで37年間奉職され、この間神学部長、大学図書館長はじめ要職を歴任された。次いでわが国初の臨床心理士養成の専門大学として前年に開学したばかりの京都文教大学学長に就任され、11年間の学長職を全うされ同大学・大学院の土台を創られた。この間、大学での研究と教育、教会への奉仕と牧師への指導、そして病院付き牧師(チャプレン)制度の導入と養成、盟友の河合隼雄氏と二人三脚でユング派心理学の臨床と研究活動の創生、スクールカウンセラーの導入、WHO、厚生省、文部省など政府や国際機関での働きはじめ各種学会の立ち上げ、「日本いのちの電話連名」の設立(理事長)など、まさに現代日本における「たましいの医療と教育」の最先頭に立って活躍されたのであった。晩年には欧米ばかりか、急激な近代化で人間の魂にひずみが出ている韓国や中国などアジア各国の教育・医療の専門機関からも熱烈な要請を受け、指導のために飛び回っておられた。まさに樋口先生は〈魂の医療と教育〉の世界的指導者だった。
そのように超多忙な中、岡山県の高梁の教会と町とを格別に愛してくださって合計5回も特別礼拝の講師を快く引き受けてくださった。このうち3回は私の在任中であった。最後の来会の直後に「私がどうして高梁に5回も来たのかわかったような気がした。何もかも楽しかったから」との感想をくださった。
2012年夏に中国での講演旅行から帰った直後に、先生の恩師のユング派の大家J.ヒルマン教授の追悼イベントをアメリカでやり遂げて帰国されたが、その後「夏風邪をこじらせて体調不良だ」という話を8月末に受けていた。ところが、11月初旬の「死の臨床研究大会」の講演の際に、自ら告知されて末期癌であることを知った次第である。
その後は京都バブテスト病院での「分子標的療法」が功を奏したかに見え、素晴らしい回復力を発揮された。ご家族によると「海外や遠方からのお客さまにも積極的にお会いするなど、一つ一つの出来事を楽しみながら、過ごしておりました。春には歩いて高野川のお花見を楽しみ、孫に会いに広島まで赴くなど、これまでを取り戻すような回復ぶりで、この時がいつまでも続くと、いつしか思っておりました」(お子さま方の告別式での挨拶文)とのことであった。2013年の4月半ばに、私は家内と京都で大学生活を始めた次男と3人で修学院のご自宅にお見舞いして、樋口先生は大変お元気で快活で「遠いところをよく来てくれたな」と歓待してくださり、2時間以上も長居させてもらった。最後は家の隅々まで案内して頂き、おまけに「樋口先生の勲章が見たい」という次男の失礼なお願いにも快く応じて手にさせてくださり記念撮影におさまってくださった。これが、私たち家族が樋口先生にお目にかかった最後になってしまった。
その後8月13日、ご親族の方から「8月11日に父に会いましたが、父はいたって元気で、霊的なパワーも出てきたようで新たに説教を作成したようです」とのことであった。そこで私は「樋口先生は不死鳥のような復活力で、もしかしたら末期癌も克服してしまうかもしれない」と半ば本気で期待していた。ところがその二週間後の8月25日(日)に、突然この期待は暗転した。「樋口先生が本日正午過ぎに京都バブテスト病院で永眠されました。86歳でした」とのメールが先生と親しい同志社関係の方から入り、大変驚いた次第なのである。
8月28日(水)に、家内と二人で樋口先生が半世紀以上「神学教師」を務められた京都丸太町教会での葬儀に参列して最後のお別れをしたのであるが、葬儀には前夜式を含めると千人以上の参列者が詰めかけた様子だった。また知恩院とおぼしき仏教僧がたくさん参列しており、キリスト教の牧師と同じくらいの人数がいたのではないかと思われるほどだった(樋口先生が長年学長職にあった京都文教大学の設立母胎は浄土宗の総本山知恩院である。仏教主義の同大学は、キリスト教の牧師でもある樋口先生を学長に迎えるためにわざわざ学則を変えたとのことである)。また、大学やキリスト教会関係からの参列者は全体の一部に過ぎないようであった。それは供花が、教え子の有名作家・佐藤優さんからマスコミで大人気の占い師・鏡リュウジ氏まであったことからもうかがえた。こんなふうに私には想像もつかない位の多彩な分野から、有名無名を問わず実に多くの人々が参列していたと思われる。皆が心から樋口先生の永眠を悼み、別れを惜しみつつ、先生の御霊を天国に送り出していた様子であった。
三人のお子さま方によると先生の最後の日々はこうだった。「いつもにこやかで、楽しいことが好きで、涙を見せない父でした。・・・(父は元気そうな)その気力の陰で、次第に体力が低下し、とうとう動けなくなり入院しました。苦しい息づかいにあえぐ父の傍らで、家族が涙を流しても、本人は決して泣きませんでした。痛みを取る方法が見つかってからはその表情が和らぎ、数日後の日曜日の午後、家族がすべてそろうのを待っていたかのように、みんなが賑やかに談笑している中で、とても穏やかに息を引き取りました。看取りの医者がそっとまぶたを開いた時、左の眼からはぽろぽろと涙が落ちたそうです。それは、うれしなみだだったのかもしれません。今、微笑む顔で、眠っています。今頃天国で、多くの友と再会し、にぎやかに談笑していることでしょう。そして、天上から、わたしたちを見守ってくれている、そんな気がしています」。(前掲資料)
葬儀の最後にご遺族代表が挨拶されたが、その中で次の言葉が格別に印象に残った。「私の子どもの頃から父は、会議や講義や講演で、日本はもとより海外まで飛び回って家を留守にすることが多かったのですが、そんな生活の中で父が帰ってからしてくれる土産話を聴くことが子供心にも大きな楽しみでした。ほとんどの場合、帰ってくると『いや、この度の会は傑作だったよ!』とか『大成功だったよ!』というのが口癖で、快活に話してくれたものでした。父は今天国に着いている頃だと思いますが、きっと神様に向かって『私の人生では、実に多くの“傑作な人たち”に出会うことができて、人生は大成功でしたよ』と報告していることでしょう」。本当にそんなことが実現しているかのような気がして、一瞬ではあったがその場面が確かに私の心に浮かんだ。
ご遺族の会葬御礼には「・・・故人は命と共に与えられた使命を慶びの中で全うし安らかにみもとへと旅立ちました。生前から申しておりました『私の魂は召されても人の心の内に生きる』という言葉の通り、今新たに故人の存在を感じています。その思いを皆さまと共にできることを願いつつ心から感謝申し上げます」とあった。
以上の樋口先生の地上の最後の日々や葬儀の様子を通しても、パウロのいう「おのれの信仰によりイエスの死と復活の姿にあやかる」ことのイメージを、樋口先生はご自身の生き様と死に様をもって、残された者たちに懇切丁寧に、具体的、明示的に指し示してくださったと信じる。
(以上は2013年9月22日高梁教会説教原稿「死と復活の姿にあやかる」を編集)